2009年2月月次祭神殿講話

英国連絡所長 尾上貴行

本日は「教祖ご存命の理」ということと、「心を定める」ということについて一緒に考えさせて頂きたいと思います。

去る1月26日天理教教会本部では春季大祭がつとめされました。皆様ご承知のように、このおつとめは、今から約120年前、明治20年陰暦正月26日に教祖が現身をお隠しになられた日を祈念してつとめられます。今「現身を隠す」と申し上げましたが、私たちは「教祖が亡くなった」とは言いません。なぜなら、それ日以来私たちは教祖をこの目で見ることは出来ませんが、教祖の魂は永遠に人間創造の元なるぢばにとどまり、私たちを見守り導いてくださっているからです。教祖は明治20年陰暦正月26日以前と同様に世界救けのために朝に夕にお働き下されています。このことを私たちは「ご存命の教祖」と呼び、またこの教えを「教祖存命の理」と呼んでいます。この教えについてもう少し考えてみたいと思います。

教祖が現身をお隠しになられたことは当時教祖の周りにいた先人の人々にとっては私たちの想像を絶する驚きだったことと思います。教祖は「人間の定命は115歳である」とおっしゃっていましたので、人々は当然教祖はそうであると信じていましたし、当時教祖はまだ90歳でありました。人々は教祖の身におこったことが信じられなかったことでしょう。ですが後になって、教祖は現身をお隠しになられたけれども、その魂は永遠であり、これからも代わることなく世界中の人々を救けるためにお働きくださるのだ、ということを原典の一つである「おさしづによって説明され、徐々に納得していったのであります。たとえば、おさしづの一つに、

さあさあこれまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。

おさしづ 明治23年3月17日

とあり、教祖が存命であることを教えて下っています。

おぢばには、神殿の北側に教祖殿があります。そこは教祖が今も尚おられるところであり、日夜たすけ一条のためにお働きくだされているのです。中には大きなお社と鏡がありますが、よく見てみるとその前に赤い着物がおいてあるのがわかります。これは明治20年正月26日以前同様、日夜教祖にお仕えしているからです。このことはおさしづをもって指示を頂いています。

さあさあ、ちゃんと仕立てお召し更えが出来ましたと言うて、夏なれば単衣、寒くなれば袷、それそれ旬の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。

おさしづ 明治23年3月17日

おぢばでは、別席という話を9度聞き、願い出によっておさづけの理を頂き、陽気ぐらし世界建設の用材であるよふぼくとなることができます。これは私たちの精神的指導者である真柱様を通じて、ご存命の教祖から頂くものであり、教祖がおられるからこそいただけるのです。安産の許しであるおびや許しや教会に関するお許しなどもまたこの教祖殿において頂くことが出来ますが、教祖がご存命だからこそであり、すべてご存命の教祖から頂戴しています。

教祖殿を訪れると、参拝の方々がご存命の教祖の前に額ずいて、大変長いことお願いをされている光景がしばしば見受けれます。教祖は私たちの親であり、教祖はいつも私たちとともに歩んでくださっています。日本から遠く離れたヨーロッパに在住する私たちの多くにとって、おぢばに帰り、教祖殿で参拝することは簡単なことではありませんが、それぞれの自宅、所属の布教所、またこの出張所であっても私たちはお祀りしているお社を通して、おぢばにいるのと同様に教祖を拝することが出来ます。こうすることによって間違いなく教祖をより身近に感じることができますし、また教祖が50年の長きにわたってお示し下されたひながたをもっと身近なものとして通らせていただくことができると思います。

それぞれの自宅、布教所また出張所でお社に向かって拝をするとき、親神様、教祖、御霊様と3度拝をいたします。教祖に拝させていただく時に、今一度ご存命ということを心に思い返し、目の前に教祖が座っておられると感じて、心から教祖に日々を感謝し、何でもお願いし、もたれ、そして勇んで通らせていただくことをお約束するようにさせて頂きたいものです。

昨今特に真柱様は稿本天理教教祖伝に親しむようにと折に触れおっしゃておられます。是非今一度拝読させて頂き、特に現身を隠されるまでの状況を詳細に伝えている「第十章扉開いて」を教祖を感じながら、読ませて頂きたいと思います。

さて、次にこの「第十章扉開いて」の内容に関連して、この信仰における「心定め」の大切さについて考えてみたいと思います。

今年の新年の年頭に当たり、昨年1年を振り返り何かしら今年1年の目標を定められた方もおられることと思います。「アルコールの量を減らそう」と決めた方や、あるいは「この世界的な金融危機を対応して不必要なものは買わないようにしよう」と決めた方もいるかもしれません。「健康のために運動をしよう」と思っている方もいるでしょう。

お道の教えにおいて、私たちは「心定め」という言葉をしばしば耳にします。定義としては、「親神様の思し召しを十分に理解し、その思し召しを体現するために心を定める」ということになるかと思います。

教祖が現身を隠される直前に教祖と初代真柱様の間でなされた大変重要な対話があります。その時、教祖は信者一同に教えたとおりにおつとめをつとめることを大変厳しい言葉で急き込んでいます。ですがおつとめをつとめると教祖が警察に捕まる恐れがあるため、先人の方々はなかなか仰せの通りにおつとめをつとめることができません。先人たちは教祖と官憲両方に支障がない方法をお教え頂きたいと教祖にお伺いします。その対話の中で、以下の有名な「おさしづがだされます。

さあさあ月日がありてこの世界あり、世界ありてそれそれあり、それそれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。

おさしづ 明治20年1月13日

天理教教祖伝では以下のようにこのお言葉を解説しています。

親神が先ず座して、この世界が生まれたのである。世界が生まれてから、そこに国々があり、その中に人々が居り、その人々が身体を借りて居る。その人間が、住み易いように申し合わせて作ったのが法律である。いかに法律が出来ても、それを活用するか否かは、人の心にある。すなわち一番大切なのは心である。この順序を知ったならば、確りと親神の話を聞いて、真心、すなわち親神に通じる真の心を定める事が何よりも大切であると教えられた。

これは何も人間社会のことを軽視してよいといっている訳ではありません。ただし何よりもまず私たち人間、そしてこの世界は親神様によって創造され、それ以来ずっとこれまでひと時も休むことなく、そして未来永劫変わることなくご守護下されているのだということを知り、しっかりと心に治めることが大切であると教えてくださっているのです。この身体は親神様からのかりものであること、私たちが陽気ぐらしをすることが親神の望みであることをしっかりと理解することが何よりも大切なのです。

皆さんは、それぞれにこの教祖の教えに感銘し、この教えに基づいて日々を過ごさせて頂こうと心に決めた日があることと思います。それはそれぞれの信仰の上での大きな心定めであると言えます。その大きな根本的な心定めを実行するために、私たちは様々な心定めを、言い換えますと、親神様、教祖との約束をするのだと思います。

私たちの信仰生活において心定めは多種多様です。「毎朝夕おつとめをします。」「胡弓を弾けるようになります。」「毎日おふでさきを読みます。」「毎週近所のごみ拾いをします。」「所属教会あるいは布教所に毎月手紙を書きます。」「パリの天理教セミナーに参加します。」などなど。

ただし、心定めにおいて大切なことは、必ずしも心定めの内容そのものだけではないと言われます。むしろ、その心定めを達成できるように継続的な努力を怠らないことが大切です。どれだけエネルギーと心をこめて努力できたかが大切なのです。

また心定めはなかなか出来にくいことを決心し、お誓いする時に使われる言葉であるといわれます。「おさしづ

定めるも定めんも定めてから治まる。治めてから定まるやない。定めてから治まる。・・・・・定めて掛かって神一条の道という。

おさしづ 明治24年11月3日

とあります。

この「おさしづについて深谷義和先生は、

親神様は定めるということは、これならできそうだから心定めをしようというようなものではない。定めるから治まってくるのである。治まってから定めるのではない。まず何でもどうでもという精神で心定めをし、どうでも実現しようと努力していくから治まるのである。しっかり心を定め、つとめていく。これが神一条の道である。とお教えくださっている。

と述べています。(「お道の言葉-心定め」より)、

またおふでさきでも、なぜ心定めは大切なのか、また信仰生活を送る上で必要なのかを教えていただきます。

しやんして心さためてついてこい
すゑはたのもしみちがあるぞや 第五号24

しんぢつに心さだめてねがうなら
ちうよぢざいにいまのまあにも 第七号43

昨年来、私たちは現在世界的な金融危機に見舞われています。世界各地では様々な紛争が絶えません。地球温暖化問題も解決の糸口がつかめていません。今年も私たちの身近なところでも様々なことが起こってくると思います。楽しいことあれば、喜ぶことができます。しかし何か良くないことが起こったとき、それを喜ぶことができるかどうか。私たちは望ましくない事柄も、良いことであると考え、心に治める方法を教祖から教えていただいています。しかし、良くないことを絶えず受け入れることは簡単ではありませんし、それを喜ぶとなるとなおさらです。

心定めはこの点においても大きな手助けとなります。事情や身上をご守護いただくためになんらかの目標を定め、教祖に約束するのです。あるいは、成人するために、またすべての事柄を親神様からのメッセージとして積極的に考えられるような心を磨くために、心を定めるのです。おやさまと初代真柱様の対話の中で見たように、親神様は物事を治めていくには心を定めることを望まれています。心定めは前進するために不可欠な要素ともいえます。

では、私たちはどのように心定めをさせていただいたら良いでしょうか。もちろん、各自それぞれの状況に応じて心を定めさせてもらえばよいと思います。ただしお道の教えにおいて成人させていただくために心を定めるのであると考えれば、私たちに確かな指針を与えて下さる真柱様のお言葉をまず心にしっかり治めることが大切です。昨年10月の秋季大祭で、真柱様は以下のようにおっしゃりました。

今日の私たちこそ、時代の風潮や世俗的な欲望に流されることなく、この道が教祖お一人から始まった道であることをあらためて胸に刻み、よふぼく、すなわち陽気ぐらしの世界建設のための人材としての自覚を高め、まずは身近なところから、陽気ぐらしの輪を広げていくことが大切だと思うのであります。

大は地球環境問題から小は夫婦親子の問題に至るまで、さまざまな社会問題を抱えて、世の中がなんとなく不安な暗い気分に覆われている今日このごろであります。

そうしたここの問題にどのように対処すべきかを思案することは、もちろん必要なことですが、私たちこの道を歩む者としては、その前に、教祖のお教えくださった通りにしていれば、決して間違いはない、という信念を持って教えを実践することが第一だと思います。その土台があってこそ、種々の思案や手立てが生かされると思うのであります。その意味でも、一人でも多くの人に、この教えを伝え広めることが、いま私たちに課せられた急務であると考える次第であります。

この真柱様のお言葉を今一度噛み締めて、お互いに何をなすべきか考えさせていただきましょう。またそれぞれの実情により即した形で考えるためには、それぞれの所属する教会の会長さん、布教所長さんに相談し、アドバイスを頂くことも大切です。近くにいる教友の方に相談するのも良いかもしれません。出張所で話し合うのもよいでしょう。心定めというと、何か大層なもののように思い、達成できないと困るから心定めは好きではないという方もおられるかもしれません。それも一つの考え方かもしれません。ですが大小のいかんに関わらず、また実行の期間に関わらず、何らかの目標を定め、その達成のために努力していくという行為は間違いなく親神様に受け取っていただけますし、私たちの生活をより良い物に代えて行く力になります。

今年もヨーロッパ出張所では様々な活動や行事を予定していますが、こういった行事や活動を通じて共々に心の成人を目指し、より良い生活を送れるように共々に歩ませて頂きたいと思っております。そしてこのヨーロッパの地で、真柱様が述べておられるように、「陽気ぐらしの輪を広げて」行きたいと思います。

「教祖ご存命の理」、そして「心定めの大切さ」について思うところをお話させて頂きました。これからも成人の道を歩ませていただくことを親神様、教祖に共々にお誓い申し上げまして、本日のお話を終わらせていただきます。

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