2015年5月月次祭神殿講話

リヨン布教所長 藤原理人

ここ数年陽気ぐらしのキーワードとして教えられますように、感謝・慎み・助け合いはお道の信仰の基本です。しかしながら、こうした態度はあまりにも基本的で、一市民であれば誰もが実践しようとしていることではないでしょうか。
どのようにこの初歩的な教えを考えるべきなのでしょうか。

まず感謝についてですが、どうしてこんな簡単なことを敢えてスローガンとして謳わなければならないのでしょうか。

親は子供に「ありがとうと言いなさい」とよく言いますが、大人になってもこの「ありがとう」がなかなか言えない状況になったことはないでしょうか。お礼を言うどころか、不平や不満ばかり言っていないでしょうか。それは単純に私たちの心に曇りがあるからです。心の埃のせいです。埃は私たちの心に積もるばかりか、他人にもまき散らしてしまうことがあります。玄関前をほうきで掃いて、自分の家のゴミで隣の軒先を汚しているようなものです。

心の埃は本来、有害なものではありません。しかし、自分のことだけを考えた時、悪影響が出てきます。例えば「にくい」の埃は、誰しもが持ちうるものですが、自分の中にあるうちは他人への害がありません。もちろん、払って掃除しなければなりませんんが、自分自身の信仰問題として処理できるのです。ところが、このにくいを態度に表したり、あるいは人がその心遣いに気付いてしまった時、問題が起こってきます。

この心の埃は、完ぺきな人間であっても避けることができないものです。教祖のお言葉として正文遺韻に残っていますが、教祖自身も「台所に立てばほこりを積むで」と仰ったそうです。教祖ですら埃から逃れられないのです。

また教祖は「どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。」(逸話編130、小さなほこりは)とも仰っています。

私たちは当然完ぺきな人間ではありませんから、埃は無意識のうちにでもたまってきます。それに気付かなければ、埃は掃除されないまま残るばかりか、知らないうちに埃をまき散らしてしまい、他人の心にまで侵入して悪影響を及ぼすのです。つまり、曇った心は、人の心まで曇らせるのです。そうなると、お互いに理解し合い、感謝し合うことは難しくなります。

感謝とは、そうした埃の動きとは正反対のものです。喜びを振りまき、人の心を明るくするものです。ありがとうの一言や感謝の言葉には精神的な意味合いがあります。それによって、埃を避けることができ、埃を撒き散らすこともなくなるのです。埃が出ることは仕方ありませんが、それを撒き散らさないように気を付けなければなりません。

感謝の種はどこにでもあります。どんな状況でも、そうした感謝の種を見つけることが信仰の基本であり、かつ最も重要な態度でもあります。

続いて慎みですが、これは「おさしづ」に教えられている教訓です。慎むとは、節食、もったいないの精神、節度、といったものを想像させます。物であれば、物を粗末にしないといった実際の生活面でも分かりやすいのですが、精神面はどうでしょうか?散り乱れた心を静めて、わがままな心を出さないようにすることなどが挙げられると思いますが、慎めと言われると、一生懸命何かを控えるように注意し、内にこもってしまうかもしれません。

おさしづ

「あちらへ、こちらへ、心を映し、皆んなこれだけ慎んで居たらよい、これだけ言わんと置こう、と慎み来たる。人間の心一つも要らん。」(さ21・11・14)

とあります。

このお言葉から、慎みには人間心は必要ないということが分かります。つまり、これは言わないでおこう、というような心はいらない、と言えるでしょう。信仰的には、慎みとは必要な時に必要なことを行う、ということではないでしょうか。

ご承知のように、かしものかりものの教えは天理教で最も重要な教理の一つです。

おふでさき

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからんIII-137

とあります。

もちろん、お道において暴力は許されるものではありません。どんな状況においてもです。借り物の体は、借りているものとして扱われなければなりません。図書館で借りた本を傷つけてはいけないことは誰しもが分かっています。自分自身の体も、他の人の体も、人間の持ち物でない以上、大切に扱わなければなりません。

一方、心と体は密接につながっています。体が傷つくと、心も苦しくなります。心が傷つくと、体から活力が抜けていきます。人の心を傷つけたなら、その人の体も心の傷に苦しむことになります。心の自由があるとはいえ、間接的に体を苦しめてしまうので、人の心を傷つけてもいけないのです。

心が自由である私たちは何をしても、何を言ってもいいのですが、その言動は何者をも傷つけないように気を付けなければなりません。そのためにも、おさしづで「人間の心」と教えられる、人とのコミュニケーションの扉を塞いで、自分のことばかり考えるような小さな心を持たないよう反省しなければなりません。

従って、慎みとは、内面と外面のバランスといえると思います。必要に応じて自分のすべきことを見分けなければなりません。首を突っ込みすぎるのも良くないですし、自分の殻に閉じこもってばかりでもダメです。慎みとは心に誠真実を持ちながら、つまり常に心の掃除を行いながら、ちょうど良いバランスの言動を取ることと言えるでしょう。

最後に助け合いですが、おふでさき

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするならXII-93

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよXII-94

とあります。

このおふでさきにありますように、たすけあいとはいえ、救けの主は親神で、人間ではありません。

おかきさげには

一つ、これまで運ぶという、尽くすという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。

とあります。

実際、「互い扶け合いという」というは『諭す理』であって、教えとはいえないかもしれません。「扶け合い」という言葉は人間にその理合いを説明するための言葉とも言えます。最も大事な点は、「救ける理が救かる」ということです。
こう考えて見ると、たすけ合いは実際には存在しないと言えるでしょう。

天理教事典を見てみましょう。

「たすけあい」とは自他のたすけの交通である。しかし、自分が相手のたすけを待つ限り、たすけあいは実現しない。それが実現するのは、自分から相手へのたすけの働きかけにおいてだけである。人をたすけるというよりは、たすかってもらいたいと思う心の発動であり、たすけられたご恩に報じるというのが、人のたすけの真相である。(天理教事典)

考えて見ると、人間は生まれた時既に、多くの物や人に助けられています。私たちは既に受けた御恩を返していくことになります。どれだけ手助けをしても、既に受けている恩に並ぶことはありません。私たち信仰者がすべきなのは見返りを求めない一方的なたすけなのです。真のたすけ合いは、一方的なたすけの中でしか実現しないのです。親切にしたのにお礼を言ってくれない人もいるでしょう。しかしそんなことは重要ではないのです。なぜなら私たちが受けている恩は計り知れないほど大きいからです。救け合いとは一対一で行うものではなく多方向で行われるものなのです。

つまり、私たちがすべきなのは、たすけ合いではなく、たすけなのです。お道の教えはそういうもののはずです。不平等だとか、荷が重すぎるとか思われるかもしれません。しかしながら、こうした信仰態度でいれば、どんな形かは分かりませんが必ず見返りはあります。精神世界は、普通の感覚とは異なる答えを出してくれます。

もしかしたら、皆様の中にはたすけられることが分かっていて、たすけを行うのは偽善だと仰る方がいるかもしれません。確かに、自らを省みずに人助けに励む方もいらっしゃいます。しかし、そうした人々は非常に稀なケースで、また真似をしろと言ってもできるものではありません。自分のことを考えるのは当然のことで、それが悪でもありません。だからこそなおさら、人のことを考えることに価値があるとも言えるでしょう。親神陽気ぐらしをさせたいと人間世界を創られました。だから人間は自身の平和や幸せを願うのであり、それは当然のことなのです。常に、あるいは完ぺきに利他主義である必要はないのです。しかし、何か手助けをする際には、見返りを求めてはいけません。繰り返しますが、天理教の本来の教えから行けば、たすけ合いは存在せず、一方的なたすけの行いしかないのです。

ここまで見てきましたが、結局のところ、これら陽気ぐらしのキーワードは単純なようで、実は実践するのが難しいというのが分かると思います。だからこそ敢えてキーワードにしているのです。既に実践できていると思わず、改めてこのキーワードの教理的な意味合いを考えて信仰実践していきましょう。

ご清聴ありがとうございました。

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