2020年8月月次祭神殿講話

リヨン布教所長夫人 藤原由香

本来ならば、来月にはヨーロッパ出張所創立50周年記念祭を迎えていたわけですが、この度のパンデミックの影響を受けて1年延期となり、2021年9月19日にと、あらためてお取り決め下さいました。私たちヨーロッパ在住ようぼく・信者にとりましては、目標に向かって心の成人に向けて邁進するのに最も適した時期、その道のりを、なんらかの必然的な親心から1年延ばして頂いた、ということになると思います。

婦人会本部からのお言葉に『お見せいただいたことを糧とし、陽気ぐらしの担い手として喜びと勇みをもって親のお心にお応えする道を求めて歩んでいきたい』とありましたが、個人的にはこの「喜びと勇みをもって」がまだまだ足りない私たちであったのだな、と反省させて頂いております。しかしまた「お見せいただいたことを糧とし」とありますように、糧とは心や体を力づけるものですから決してマイナスに捉えることなく、なにごともプラスに捉えて、延ばして頂いた1年をしっかり成人できるように歩んでいかなければならないな、とも思わせて頂いております。

さて、ここで成人という言葉について少し考えたいと思います。成人という言葉は、まず言葉のままに考えますと、幼い者が成長し、大人になることです。私の娘もいよいよ3か月後に、この国では大人の仲間入り、ということになりますが、大人になるとは、まずは体が十分に成長することです。皆様ご存じのように、娘も今や私より背も大きくなりまして、よくぞここまで十分に成長させていただけたものだと、大変ありがたく思っています。

おふでさき第6号の48番に、

それよりもむまれたしたは五分からや
五分五分としてせへぢんをした(6-48)

とありますが、ここに出てきます成人という言葉は、さきほど娘の話をさせていただいた通り、小さくこの世に生まれた人間が、親神様のご守護によってだんだんに成人した、つまり大きくなっていったという、文字通りそのままの人間の体の成長のお話だと思います。元始まりのお話ですね。

命を与えられて小さな体でこの世に生まれでるのも、生まれ出て、だんだんに体が大きく成長していくのも、親神様の絶え間ないご守護のお働きによるものです。無意識の成長といいますか、当然、私たちが意図して意識的に思い通りに成長できるものではありません。また自分の子供といえども、成長させてやろうと思ってできることと言えば、よく食べさせて、寝る子は育つ、を教えることだけで、あとは神様どうぞよろしく、といった感じです。

これに対して、私たちはよく「心の成人」という言葉を使います。辞書にも、成人とは幼い者が成長し大人になること、そして思慮分別をもち、社会的責任を果たせるようになること、と続きます。お道につながる私たちお互いは、たびたびこの心の成人、という言葉を口にしていると思います。

では、心が成人する、とはどういうことでしょうか。

言葉のままに考えますと、体の成人に伴って、心も成長し心も大人になることです。ですが、体が十分に成長すれば、心も自然と十分に成長するのでしょうか。体と心はリンクしていますから、きっとそういった部分もあるのかな、と思いますが、やはり心は目に見えませんから、たとえ自分の心と言えども、なかなかその判断は難しいところです。

皆さんは、子供の時にイメージしていた大人に、今なっていらっしゃいますか。あるいは皆さんのお子さんは、皆さんがイメージした通りの大人に、今なっていらっしゃいますか。

私は自分が今この年齢になってみて思うのは、あれ?大人ってこんな感じだったんだな、ということです。きっとたいていの人にとっては、大人と言っても世の中には知らないことの方が多いし、まだまだ勉強するべきこと、やるべきことはたくさん残っているし、不安はむしろ若い頃より増えていっていると思います。

心の成人が体のそれに比べて成長が遅かったり、また成長の過程を行ったり来たりするように感じるのは、親神様が、お道の言葉で言いますと、人間に心のじゅうよう、つまり自由をお与え下されているからではないでしょうか。自由ということは、責任をもって何かをしたり考えたりするのに、束縛や強制といった障害がないことです。障害がない、ということはつまり、人間は常に未来への選択を強いられていて、それゆえ自由は重荷となる、と、これはフランスの哲学者サルトルの表現です。彼の言うように重荷と表現すれば、何か嫌なもののようにも聞こえますが、確かに、心の成人と私たちが考える時、私達には心の自由が与えられおり、心の成人への道は、絶え間ない未来への選択と実践の繰り返し、私たちに与えられた重荷であるとも言えます。

しかしお道の教えでは、私たちの心の成人のために与えられる荷物は、それぞれに、また、その時々に適したちょうどいい量の荷物を親神様から与えられている、と考えます。

これはとても天理教らしい表現だと思います。その荷物を重いと思えば重荷ということになりますし、重いとは思わずに、今の自分に必要な荷物があってありがたい、と感じることもできるからです。どんな中にも喜びを見つけ出せる陽気な心で、という教えの根拠になる表現だと思います。

おふでさき第6号の14番から16番に

せかいぢうをふくくらするそのうちわ
一れつハみなもやのごとくや(6-14)

にちにちにすむしわかりむねのうち
せゑぢんしたいみえてくるぞや(6-15)

このみちがたしかみへたる事ならば
このさきたしかたのしゆでいよ(6-16)

とあります。

それぞれの、その時々の荷物と真摯に向き合い、心の成人を絶え間なく目指すところに、どんな中にも先を楽しんでいく心が作られてくる、ということだと思います。

つまり心が成人する、とは、どんな中にも、先を楽しみにする心が自分の中にしっかりある、といえる状態なのかな、と思います。

次の記念祭を迎えるただいまの旬に、私たちお互いが心の成人を進めていく選択肢はたくさんあると思います。同じお道の教えを聞かせて頂いているお互いですが、それぞれの心は自由ですし、しょっている荷物も違いますから、進んでいく道も様々でしょう。親神様もそういった人間の多様性こそを楽しみとされ、人間に心の自由をお与え下さったのだと思います。

教祖が直々お教え下さったおつとめの完成の中に心の成人を目指す人もいるでしょうし、人を助ける心になりなされや、というお言葉に導かれて、おさづけに心の成人を目指す方もいらっしゃるでしょう。感謝の心と報恩の気持ちをもってひのきしんに邁進する方、あるいは何か個人的な心定めをされている方もいらっしゃると思います。

心の成人への道のりはさまざまで、また心は目に見えませんから、取り出してその成長ぶりをのぞいてみるわけにはいきません。ですので、これから、見えない心の自己評価の判断に迷ったら、先にご紹介したおふでさきを思い出してみようと思います。

そして最後に、自分自身への振り返りの意味も含め、これから成人する娘やまわりの子供たちをはじめ、これから別席を運んで頂く方々に、別席のお誓いの言葉の最後の部分を読ませて頂きまして、私の話を終えさせていただきたいと思います。これは、心の成人を目指す私たちがする最初の心定めと言えると思いますので、来年9月にヨーロッパ出張所創立50周年記念祭を今度こそ迎えるにあたり、お誓いした人も、これからお誓いする人も、口先だけの約束になってはいないか、なりはしないか、お互いに今一度しっかり胸に治めていきましょう。

「おぢばでお仕込み頂く親神様のみおしえをしっかり心に治め、教祖をお慕い申し、そのひながたをたどり、親神様にご満足していただき、ひとさまに喜んでもらうよう、つとめさせて頂きとうございます。」

ご静聴ありがとうございました。

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