2014年9月月次祭神殿講話

ナゴヤ・パリ布教所長 津留田正昭

おやさまのお言葉に、

にんけんはみなヘ神のかしものや
なんとおもうてつこているやら(3号41)

めへヘのみのうちよりもかりものを
しらずにいてハなにもわからん(3号137)

と仰せいただきます。親神様は人間のこの身体は、実は親神様からのかりものであり、人間から見ればかりものであると教えていただきました。簡単に考えてもわかりますが、熱が一度上がると、自分の力で下げるのは不可能です。そして、さらに別のお言葉に

人間というは、身のうち神のかしもの、かりもの。心ひとつが我が理(M.22.6.1)

人間というものは、身はかりもの、心ひとつが我のもの(M.22.2.14)

というように、この世は、神の身体であり、人間の身体は神からのかしもの、そして心だけは自分のものであると教えて頂いております。人間は生を享けた時に、借り物である身体に心が、人間が自由に使えるものとしてひとりひとりにお与えいただけるのです。親神様のご守護のもと、自分の生き方を自ら切り開き、陽気ぐらしの世界を実現できるようにこの身体をお貸しいただき、心の自由をお与えいただいております。

では、人間が出直すとき、その心はどうなるのかと考えますと、親神様にこの身体をお返しするとき、心は無くなってしまう、消えてしまうと考えていいのではないかと思います。ということは、人間はこれで完全に無くなってしまうのかというと、そうではないと思うのです。

人間が自分というものを考えるとき、自分とは何を指すのか、自分の本質、主体は身体なのか、それとも心なのか、と考えますと、身体は貸しものですから違います。心はというと、心というのは使うものですから、人生を歩む上の道具の一つと考えいいと思いますから、こころでもありません。

これについて教祖は、魂ということを教えて下さいました。

おふでさきに

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもおなしたまひい(13号45)

というお言葉からもわかるように、教祖は、身体、こころだけでなく、魂について言及されております。

人間の魂は親神様から見れば、本来同じ価値を持つものであり、高低のちがいはないものであると教えられているように、私達には心だけでなく、魂ももっていると教えて頂いています。この魂について天理教事典では次のように解説されています。

「人間が出直すとき魂は親神様のもとに帰るが、その魂は親神様のおはからいと守護によって、再び新しい身体をかりてこの世に生まれ出てくる。

個々の魂は、本来純粋無垢なものであって、この世元はじまり以来、人間が出直しても魂は生き通しと教えられるように、消滅することなく、親神様の守護によって活かし続けられるものである。人間をして生命体としての人間とあらしめる、核的なものということができる。魂の働きは、人間の心の動きとなって現れ、魂にはそれぞれの人間の心の長い歴史が刻み込まれている」とあります。

人生を考えるとき、この魂はとても重要な要因であると言えます。言い換えれば、魂を考えないで人生を考えることはできないとも言えるでしょう。 ですから、私という人間の本質、主体は魂であると言えると思います。

人の一生でどのような心を使っていたか、良い心遣い、悪い心遣いのすべてが、残っているところが魂であり、心遣いの記録場所というのが魂であると思います。そして、その魂は生き通しと言われていますから、心が亡くなった後も魂は永遠に残っていきます。出直しの後、親神様の懐に抱かれて、再び新しい身体を借りて、生まれ変わってくると教えて頂いております。

そして、魂には人間の心の歴史が刻まれているということは、それは心の記録という言い方もできると思います。そしてその心の記録のことをいんねんと、教えてくださっています。たとえば、私達はこれまでの人生でいろいろな場面に遭遇しました。いいこともあれば悪いこともある。特に悪い時は、それを運命とか宿命と捉えて、何か不可抗力によって支配されているように思い誤るのが人間であります。しかし、決してそうではなくて、自分勝手で、間違った心遣いをしたから、その記録が魂に残され、のちになって現れてくると考えるのです。きゅうりの種をまけば、きゅうりができる。トマトの種を植えれば、トマトが出来るということです。人を喜ばせたら、それが記録され、その種が芽生えて来て、素晴らしい人生になるわけです。これが、おやさまの教えられた天然自然の道理であります。

このいんねんを考えるときに大切なことは、今の通り方です。それは、今日は明日につながっているということです。因果性という法則があり、今から今を超えた次の時間はつながっていて、必ず、今が影響しているという考え方です。今、私が使っている心は明日につながり、明日の心は明後日につながっている。そのように死ぬまで今の心遣いが私の人生に影響を与え続けるのです。さらに、そこまでで終わるのではなく、先ほどの魂を考えるとき、それが記憶されるわけですから、永遠に今の心遣いがつながっているということになります。

そのことを心に強く置いて人生を通られた先輩がおられますので、その人のお話をさせていただきます。中山こよし先生です。この先生は、幼い時からおやさまのお側で過ごされ、苦難の道中を過ごされました。そして学校にも行かれず、文盲でした。その先生のお孫さんが小学校に入り、字の勉強をされていると、お孫さんの側にいってお孫さんから文字の書き方を習われていました。そしてその様子をお嫁さんがご覧になって、次のように尋ねられました。

「これまで大勢の人がお母さんのお話に感激し、そして、お母さんはその人達を助けられた。素晴らしい神様の御用をされているのですから、今更字を習わなくてもいいじゃないですか」と尋ねられると、中山こよし先生は、「私は学校に入って勉強をさせてもらう徳がなかったし、努力もして来なかった。だから、このまま出直してしまったら、その努力の跡がないのだから、来生もきっと同じことだと思う。ここで少しでも一生懸命勉強させてもらったら、その努力が種となって、来生は少しくらいは字が書けるようになる身になる。私は今のために字を習っているんじゃなくて、来生の種まきをしているのだよ。」と仰ったそうです。

このように、自分の今の人生だけでなく、生まれ変わりを真剣に信じで、来生に繋がる今の生き方を考えて、お通りになられたと思います。魂は永遠に続くことを疑うことなく生きられたのです。ですから、たとえ今がどんなに素晴らしい状況であろうとも、次に生まれ変わった時のためにも、最後まで良い種を蒔く努力に徹し、結構に出直して行くという生涯を通られたのです。

しかしながら私達はどうかというと、

めいへにいまさえよくばよき事と
をもふ心ハみなちがうでな(3号33)

このように、今が上手く行っているから、それで安心してしまい何の努力をしなくなるのが私達ではないでしょうか。そのことをこのお言葉では戒めておられます。そして、今が楽しければそれで良いと考える風潮というのは、特に、物質的に豊かになり便利になったこの時代、多くの人の心の状態を表現していると言えると思います。慎みの心を忘れ、自分の欲のままに過ごしている状態は、まさしくこのお言葉の通り、「いまさえよくばよき事」という、生き方であります。

そして、続くお言葉には、

てがけからいかなおうみちとふりても
すゑのほそみちみゑてないから(3号34)

にんけんハあざないものであるからに
すゑのみちすじさらにわからん(3号35)

と、だれでも楽な道を通りたがるものでありますが、しかしながらそれは先になったら苦労の道があるのを知らないからであると、教えて頂いております。さらには、人間いうのは浅はかなものであるから、将来どんな道、苦労の道を通らねばならないか、全く知らないのだと、親神様はこのような人間の心をご心配くださっています。親神様は、人間創造の時に「人間が陽気ぐらしをするのをみて、ともに楽しみたい」という深い思召のもと人間を創造してくださったわけですから、このような私達の通り方に対して、このお言葉を通して、ご注意を促してくださっているのです。

そして、一歩進んで、今さえ良ければの考え方を失くして、どのような毎日を通ればいいのでしょうか。それは、簡単にいえば、人のために自分自身があるということを自覚し、お互いに助けあいを実践するということです。どんな些細な事でも、いいのです。そのことをおふでさきには、つぎのように教えてくださっています。

このさきハせかいじゅうハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら(12号93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとおもゑよ(12号94)

世界中の人間がみんな互いに相手を尊重し、たすけあいを実践するならば、親神様はその誠心を受け取って、どのようなたすけも、みんな引き受けてくださり、素晴らしいお働きをくださると仰せくださっています。

今が良ければそれでいいのではなく、魂に良い種を蒔く行為、良い記録を残し続けていく行為、人のために、人の喜ぶ行為を積み重ねることこそが、私達の今の、そして毎日の通り方であると思うのです。魂に良い記録がどんどんと積み重なっていけば、きっと来生も、それ以降も、魂が輝き、きっと素晴らしい家族、社会、そして世界が生まれ、本当の平和な世界が実現できるものと存じます。

ご清聴ありがとうございました。

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