2008年6月月次祭神殿講話

ガリシア布教所長 マリアデルカルメン・アレンアルバレス

私がこの信仰に入りましたのは今から23年前でした。私の人生で本当に大変な時でした。誰もが苦しみから逃れようとするように、その時期、私は右へ左へと精神的救いを求めて彷徨っておりました。答えの見つからない自分自身の疑問が私を一番苦しめました。あっちこっちと探し求めたところで、神へ通じる道となるものを見つけ出すのは簡単なことではありませんでした。

しかし5年後、とうとう私はこの自分の運命を受け入れるしかないと思うようになった時、ある方が私に天理教の話をして下さいました。そこから、私の人生は私にとって意味あるものになったのです。

天理教の教祖を私たちは"おやさま"とお呼びしております。私たちは、皆偶然この道にたどり着いたのではなく、全て神がそうなるように成しているのだと教えておられます。ですから、私は、今日ここに集まった皆様に対しても、神様の大きなお考えがあったのだと思っております。

私たちは、明日はどこそこへ行く、何々をやると言うことはできますが、実際には、明日私たちが予定していたことを本当にできるという保証は全くないのです。

神という存在は受け入れがたく、信じられないことではありますが、ちょっと考えてみれば、私たちの身体は自分自身のものでなく、我々で制御しているものでは無いということに気づきます。例えば、もし今日、大変な病気に襲われたとしたら、私は今皆さんと話すためにここにいることができません。

先ほど申しましたように、私がこの道を知ってから大分経ちましたが、この道を見つけるのは簡単ではなかったように思います。その当時の私の心は、神に対して「なぜ、こんな事になるのですか?私が何か悪いことをしたでしょうか?」と疑問を投げかけておりました。

皆様のなかにも、何かの理由で苦しんだり、理由がわからず、神は不公平だと思われている方もおられるのではないでしょうか。

私たちの神、親神天理王命はこうおっしゃっております。

このさきわどのよなみちがあるとても
人をうらみなハがみうらみや

そしてまた、

しんぢつのたすけばかりをせくからに
そこでたん/\いけんしたのや

このお言葉によって、親神は私たちに起こる全ての困難や苦しみは神の導きや説得なのだと教えられています。そして、この"てびき"によって、我々を助ける、ということだけを考えているのだと言っておられます。しかし、我々はどうやって理解し、救けていただくのか?

教祖が私たちに神の思し召しを取り次ぐため、神のやしろと成られた時、信者達に対して急を要して頼んだことは、かぐらづとめをつとめるための人間を早急に揃えることでした。なせでしょうか?なぜ、この礼拝を皆でつとめることが大切なのでしょうか。

教祖が作られた歌、"おふでさき"で、次のようにおっしゃっておられます。

にち/\にはやくつとめをせきこめよ
いかなるなんもみなのがれるで

とのよふなむつかしくなるやまいでも
つとめ一ぢよでみなたすかるで

いつまでも、私たち神の子供人間は、将来現れるやも知れない危険など少しも考えず生きている子供だと、神の目には映るのだと思います。

お子さんを持っておられる方は、この、神が自分の子供である私たち人間に対して感じている気持ちを良く理解することができるでしょう。

私は、自分の子供に、後に災いを及ぼす危険が近づいているのに、それを気にもとめない父親も母親もいないと思います。父親もしくは母親はどんな犠牲をはらってでも、子供達がその危険から逃れられるように、すぐにでも教えようとします。ですから、神は、その親の愛をもって、私たちをそのような危険から逃れられるよう導かれようとしているのです。そして、そうできるのは、神が教えた"つとめ"をすることであると確かにおっしゃっています。私はこれが神がその歌の中で説いている気持ちだと思います。

しかし、子供達が、自分たちは自分たちがしたいことに対して十分な責任を持ち、年も十分だと思っており、親の忠告を聞きたがらないとき、どうしたらよいのでしょう?もしくは、子供の一人が家族を社会的に辱める行いをしたら、また、今まで家族の人間がしたことのない犯罪を犯してしまったら、いったいどうしたらよいのでしょう?

おやさまの逸話編に、一つのひながたがありますので、お読み致します。

(172)

堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に伺ったところ、

「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや。」

と、仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかな御守護を頂いた、という。

私たちの前生を受け入れるというのは大変難しいことです。つまり、私たちはいつも同じ魂をもち、私たちが前生で蒔いた種と私たちの行いが、現在の自分自身の子供達のうえに現れているということ。この大変あからさまで厳しい方法によって我々に事実を伝えようとする教えは、多くの人にとっては受け入れにくいものだというのは当たり前のことです。

教祖が教えくださっているのは、

めへ/\の心みのうちどのよふな
事でもしかとみなあらわすで

これみたらどんなものでもしんちつに
あたまかたけてみなしやんする

ということです。

親神は我々にこのようなやり方で我々の因縁、宿命をお見せ下さってはいますが、同時に、私たちには、私たちが蒔いた種を希望ある未来に変えようとしなければならないことを理解してもらいたいと望まれております。

つとめの歌、みかぐらうたの中では、こうも言っておられます。

なんでもなんぎハさゝぬぞへ
たすけいちじよのこのところ

すこし、私の経験談をさせて頂きます。

約二年前、私たちの布教所のある信者さんに大変辛いことが起こりました。その方の二十歳になったばかりの妹さんが、建物の5階から投身自殺をはかったのです。目の前にいたお母さんは何もできませんでした。彼女を助けに行った時は、誰も彼女が生きているとは考えられるはずがありませんでした。しかし、彼女は生きていました。それだけでなく、意識もありました。彼女は病院へ向かう救急車の中で意識を失ったようです。医者達は彼女を診察することができませんでした。何故かというと、彼女の身体が恐ろしく腫れ上がっており、何も処置ができなかったのです。医者は患者の父親に、彼女は助からない、もし命があっても、植物人間になり、歩くことも話すこともできなくなるだろうと伝えました。患者と面会可能になるとすぐ、ようぼくだったその信者さんがおさづけを取り次ぎました。(おさづけというのは病気を助けるために親神が私たちにお与えくださる神の力です)

3日目から、医者は彼女に最初の検診をしました。しかし、それはほとんど形だけのものでした。というのは彼女はまだ意識を回復しておらず、動かしたりするとさらに容態を悪化させる恐れがあったからです。医者は彼女を救う手だてはないと考えていました。しかしながら、彼女は一週間も経たないうちに意識が戻ったのです。そして、その信者さんは妹の脚が少し動くのに気づきました。これで、医者達は患者を検診する事ができるようになりました。

驚く事に、脳に関しては大きな損傷は全くなく、首に被害があるにもかかわらず、せき髄は無傷であることがわかり、全身不随の恐れは無くなりました。別の診察では、彼女は単に膝と両側のあばらをいくつか折っていただけでした。医者は自分たちが見ているものを信じることができませんでした。

彼女は首と膝の手術後、リハビリテーションを始めました。退院した時は車いすでうちへ帰りましたが、現在は一人で歩くことができ、両腕を動かすことに多少の困難がありながらも、彼女の普段の生活には何ら支障はありません。

この話を考える度に、たとえ我々のいんねんや宿命が難しいものであったとしても、私たちが信仰さえしておれば、神は大難は小難に、小難は無難に変えて下さっているという事実を、私は実感するのです。

みかぐらうたにはこうあります。

ようこそつとめについてきた
これがたすけのもとだてや

さて、教祖が神の教えを取り次がれるようになった時、誰も彼女を信じませんでした。ひどいことに、皆反対し、まるで彼女が悪魔か何かに取り憑かれたかのように扱いました。教祖は、この神の教えは全く悪くも危なくもなく、そのたった一つの思し召しは、神の子である世界中の人間が、協調して、幸福に生きられるように導くことだということを人々が理解するまで教え続けました。また、人々が彼女の話を聞くようになってからは、彼女自身が自己犠牲となり、大変な困難の中を通られる姿を皆に見せました。彼らにしっかりと理解せるためにです。

このたびハ神がおもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする

このよふにかまいつきものばけものも
かならすあるとさらにをもうな

今、私が"おふでさき"という、神が書かれた書物から引用したこの歌は、まったくその時だけの教えでなく、いかなる時代であっても、時間の流れ、人類固有の事情を超越した教えであります。

毎日、周りの環境のせいで自分は被害を受けていると思いこみ、途方に暮れている人々は、肉体的、精神的な救いを求めて教会へ参ります。その方達はそれが自分たち自身の身から出たものだとは知りません。

私は先ほど皆さんに、天理教教祖のおやさまが一番初めに教えられたことはおつとめをつとめることだと、お話し致しました。

すこし、この礼拝の儀式とそれが何故あるのか、お話しようと思います。

おつとめの歌、みかぐらうたの第一節で、我々は手振りをつけて、こう唱えます。

あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと

これを21回繰り返します。私はこれを、厳密に言って、"祈り"だとは思いません。少なくとも、受け身の祈りでは無いと思います。私たち自身の口から、天理王命に、私たちは自分の心から悪を払いますと言っております。(手を内から外へと埃を払うように動かして)

神が私たちに清めよとおっしゃる悪または私たちの心の奥深くから取り除かなければならないもの、それをおやさまは、命が生まれ変わる以前、またはその人生の中で我々が積んできた10種類の"埃"であると教えられています。

おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん。そして同じく、うそとついしょう。私たちが手ぶりで表す動きにより、私たちは、この全ての埃を払うという心定めを守るのなら、神は間違いなく、私たちをお助け下さいます。ですから、私はこれが単なる受け身の祈りではないと思うのです。

おふでさき

一れつにあしきとゆうてないけれど
一寸のほこりがついたゆへなり

と、この信仰の中で、おやさまは"罪"などというものはないとおっしゃり、神は単に私たちの心に埃が付いているだけだから、それを払えとおっしゃっています。

さらに、おやさま

いかほどにむつかしようにおもたとて
月日ひきうけあんじないぞや

と保証されておられます。

では、私の両親が私に話してくれた実際の出来事をお話し致します。

スペイン内紛のさなか、私の父は未成年でありながらも、監獄へ入れられました。囚われの身となってすぐ、確かな理由も証拠もなく、父は死刑を宣告されました。同じ独房にいた、父より少し年上の者も同じ状況でした。しかし、その同室の者は処刑されてしまったのですが、父は奇跡的に助けられました。それから父は内乱の前線に送られたのですが、チフスを患い病院送りになりました。そしてそこでも、父はこの恐ろしい病気から救われたのです。それからまた別の戦線に送られたのですが、戦争は終わりを迎えていました。戦争が終わり、長い間父はスペインを離れていましたが、父がスペインに帰った時、私の祖母が父に、父が刑務所、そして戦線にいた間の話をしてくれたそうです。

祖母は家の近くにある山の中にいた"ある人"をかくまっていたそうです。それが、何者なのかも知らず、一度も顔を見もせずに、です。私の祖父母は百姓をしておりました。祖母が父に言うには、夜中よく馬小屋や屋根裏からおかしな音が聞こえたそうです。そして、蔵の中にあった果物や、パンそして他の食物が消えていることに気づき始めました。

近所に住む人が、銃殺されるため運ばれていたトラックから逃げ出した囚人達がいたと話していたそうですが、祖母は無くなった食べ物のことについては一切話しませんでした。なんと祖父に対してもです。さらに祖母は、彼女自身の家族の為に用意していた生卵や、パン、そしてちょっとした食べ物などを、あたかもそこへ置き忘れたかのようにし続けたのです。

彼女は、隠れて生き残っていた人たちが誰だったのか全く知らなかったと言います。しかし、父が言うには、祖母はその人たちを助けるためにしたことを本当に喜んでいたそうです。たとえ、警察がそれを知り、祖母や家族の命さえ危なくなったとしても、です。この話を何年も後に私や姉妹に話した父自身、大変感きわまっていました。

時が立つにつれて、このお道の教えをよく考えていくうちに、神様が父の命を戦時中に2度もお助けくださったのは、それは祖母も人様の子供を、例え誰とはわからなくとも、助けていたからだと信じるようになりました。

私はこのことで祖母を大変尊敬しています。そして、私は、神が我々の他に対する見返りなき誠真実を見定め、我々では不可能なこと全てを請け負ってくださっていると信じています。

神はみかぐらうた、おふでさきの中で私たちに次のようにおっしゃっておられます。

なにかよろづのたすけあい
むねのうちよりしあんせよ

にんげんもこどもかわいであろうがな
それをおもうてしあんしてくれ

神は我々に、普通の人間が自分たちの子供達を思う愛と、全人類の創造者である神が、我々一人一人に対して持っている大きな愛とを比べてみよとおっしゃっております。また、それをさらに深く考えてみれば、神が全ての人間のために思っている唯一の考えを理解することができます。

おふでさき

このたびわなんてもかてもしんぢつの
をやの心をしらしたいから

これさいかたしかにしよちしたならば
いつまでいてもよふきつくめや

世界中で、私たち人間は、家族間、社会において異なった問題に苦しんでいます。また、それにどう立ち向かったらよいかわからず、落胆しています。そして、そういったこと全てに対して不足を積むようになってしまっています。これに対して、神は私たちに、私たちが幸せになれるための、たった一つの目標を保証して下さっています。

おふでさきには

せかいぢうどこの人でもをなじ事
いつむばかりの心なれとも

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから

せかいにハこのしんぢつをしらんから
みなどこまでもいつむはかりで 

どうぞ、希望を失うことなく、皆様自身の神へ繋がる道をお探し下さい。

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