2008年1月大祭神殿講話

ヨーロッパ出張所長 永尾教昭

さて、新年の挨拶は、フランス語では「bonne année」ですし、英語では「happy new year」、日本語では「新年おめでとう」となります。おそらくどれも、新しい年は皆にとって、病気、災害や戦争のない幸せな年になるようにという祈願が込められているのだと思います。

人類は、1945年に終結した第2次世界大戦以降、世界的なレベルでの戦争はしておりません。しかし、局地的なものを数えれば、第2次世界大戦終結後も地球上で紛争がなかった時代はありません。現在も、イラクやアフガニスタンは紛争状態です。

また、最近、盛んにテロという言葉が新聞やテレビに出てきます。一番近いところでは、昨年暮れ、パキスタンで女性政治家の方が殺害されました。大変残念なことですが、天理教で言う陽気ぐらしからは、まだまだほど遠い現状です。

おそらく世界中の人すべてが、平和な世の中を望んでいると思います。よほど変わった人でない限り、戦争やテロを望んでいる人はいないでしょう。にも関わらず、人類が発生して今日に至るまで、完全に平和な世界というのは実現できていません。

私たち市井の一般人は、それをよく簡単に「政治家が悪い。政府が悪い」と決めてしまい、それですべてを纏めてしまいます。しかし、どの国の政府も政治家も、国連などの国際機関も世界平和を望んでいるのです。しかし、実現できない。

政治家の論理で言えば、個人レベルなら皆、平和であれば良いと思っているし、武力を使うことは絶対良くないことであると理解していても、国益あるいは民族、宗教など集団になると利益がぶつかる。その時、紛争が起こると言うことだろうと思います。

国家、民族などを構成するのは、私たち普通の市民です。ですので、私たちも、「我々には関係ない。戦争やテロが起こるのは政治家が国や民族を治めないからだ」と傍観していても何も変わらないように思います。自分の力の及ぶ範囲で努力すべきなのではないかと思うのです。つまり、自分の生きている範囲で、小さな平和を作り出す努力が必要なのではないでしょうか。家族の平和、地域の平和、そういったものを創り出して、その延長線上に国家の平和、民族の平和、そして最後には全世界の平和と繋がっていくと考えるべきでしょう。

教祖は、紛争について、どのように説いておられるのでしょうか。おふでさきの中に、もちろん「テロ」という言葉はありませんが、「謀反」という言葉が2回と「戦い」という言葉が一度出て参ります。特に第13号にこの二つの言葉が出て参ります。ここで、おふでさきの中に述べられている「謀叛」「戦い」についての、教祖の思召しを考えてみたいと思います。前後一連のお歌を拝読してみます。

せかいぢういちれつはみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや

このもとをしりたるものハないのでな
それが月日のざねんばかりや

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい

それよりもたん/\つかうどふぐわな
みな月日よりかしものなるぞ

それしらすみなにんけんの心でわ
なんどたかびくあるとをもふて

月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ
どうぞしいかりしょちさしたい

これさいかたしかにしょちしたならば
むほんのねへわきれてしまうに(第13号43〜49)

とあります。

大意を申し上げますと、世界中の全人類は、きょうだいである。他人はいない。しかし、親神によって創られたきょうだいであるということを知らない。これが何よりも親神の残念である。

社会の上流階級にいる人も、底辺にいる人も、その魂はすべて平等なのである。なぜならば、日々使う道具、つまり身体はみな神からの貸しものだからである。そのことを知らずに、人間の心では貴賤、尊卑の差があると思っている。

親神は、世界中がきょうだいであること、魂は平等だということ、人間の身体は神からの貸しものだということ、それらをしっかりと承知させたい。それさえ理解したならば、謀叛、つまり諍いの根が切れるのだ、ということです。

世界中の人間は親神によって創られたと教えられます。つまり、親が同じなのですから、きょうだいであります。「元の理」の中で、人間の種はどじょうであったと教えられます。もちろん、一つの象徴的表現であろうと思われますが、泥海の中に泳いでいるどじょうに、当然、貴賤の差はありません。皆、等しく平等でしょう。

家族、会社などどのような組織であろうとも、人間が構成する組織には、必ず役割分担があります。皆が同じことをしていては、組織は機能しません。会社の場合、社長が必要です。さらに、社長を補佐する取締役があります。また各部の責任者、各課の責任者、そして一般の社員となります。皆必要不可欠な人材であります。しかし、一般の社員に比べて、社長や取締役の魂が尊いわけではありません。逆に言えば、何ら肩書きのない一社員が、社長より劣った魂を持ってるわけでは絶対ありません。ここを私たちは、よく間違えます。立場というのは、言わば人間社会の便宜上のルールであって、それがすなわち人間の貴賤を表しているのではないと言うことです。また性別も、男が尊くて女が卑しいなどということは、あり得ないのです。民族、国家の間にも、尊卑の差はありません。

それの一つの証左として、教祖は、人間の身体が神からの貸しものだと述べておられます。社長となる人は、おそらく、非常に経営の才覚に長けた人だろうと思います。あるいは、生まれた家、つまり先祖がその会社を起こした場合であり、さらには多くの一般社員より、比較的年長者ということだろうと思います。しかし、経営の才覚というのは、人間の数ある能力のうちの一つに過ぎません。では、例えばフットボールをさせれば、社長の方が一社員より優れているかと言えば、まったくそんなことはない。つまり、親神から借りている部分のうち、たまたま経営の才覚を決める脳の働きが優れていたから社長になられたのであって、それ以外の何ものでもありません。生まれに関しては、まったく本人の関知しないところです。そう考えれば、この世に生んでくださり、その才覚を貸してくださっている親神に対する感謝は生まれても、だから自分は他よりも尊いのだという短絡的な考え方には陥りません。つまり人間個々の立場、役割というのは、もちろん努力もありますが、一方で神から貸してもらった身体、その身体に宿る能力の賜であり、神の守護でその家に生まれてきたお陰なのです。しかし世の中には、出自、地位、頭脳の明晰さで、人を尊ぶ傾向がないとは言えず、尊ばれた方はそれで自分は尊いのだと錯覚する場合も、多々あります。

あるいは性別もそうでしょう。男の人は女の人に比べて、腕力は強いです。男が腕力が強いのは、それも親神が男の特質として、そういう身体を貸してくださっているからであって、そのことがすなわち人間としての尊卑を決めるわけでは絶対にありません。また女性の間でも、美人かそうでないとかということも、もちろんそれで尊卑が決められるものでも絶対ありません。たまたま、そういう顔を親神から借りただけであって、それだけに過ぎないのです。

このことを理解できないから、上の人は時に尊大な態度を取ります。そして、下の人の言葉に耳を貸そうとしなくなります。そして、下の者を無条件に自分に従わせようとし、従わなければ相手を攻めます。あるいは腕力が強いが故に尊いと勘違いしている夫は、妻を支配しようとします。絶対服従させようとする人もいます。これらは、「こうまん」の埃でしょう。

反対に、人間は時に周囲の人と自分を比べ劣等感を持ちます。あるいは意味もなく不公平感に襲われます。日本には「隣の芝生は青く見える」という言葉があります。周囲が自分より立派に見えるという意味です。例えば、知人の子供が良い学校へ入ったときとか、プロスポーツの選手は、何百万ユーロも給料を取っているなどという報道を見た時、妬ましく思います。これは「よく」の埃の始まりです。

「こうまん」や「よく」が長く心の中に堆積していくと、やがてそれは「うらみ」「はらだち」という埃に変化します。そのとき、家庭の不和、人間関係の障りとなっていくのでしょう。それがやがて拡大されていき、民族間、国家間の不和となっていきます。最後は、戦争、テロ行為に終結します。立場、地位は違っても、皆、親神によって創られたきょうだいであり、魂は平等である。また、万民に等しく素晴らしい身体を貸してくださっているという確信を持つことが大事だと思います。

もう一点、先ほどのおふでさきで、人間の身体が神からの借りものであるということを理解すれば、謀叛の根は切れるとおっしゃっている理由ですが、借りものであるから他人の身体はもちろん、自分の身体も絶対に傷つけてはいけないということだと思います。戦争もテロも、多くの人を傷つけます。

先ほどのおふでさきに続いて、

月日よりしんぢつをもう高山の
たゝかいさいかをさめたるなら

このもよふどふしたならばをさまろふ
よふきづとめにでたる事なら(第13号50、51)

とあります。

このおふでさきを作られた頃、日本は「西南戦争」という、言わば内戦の最中でありました。教祖は、その状態を非常に嘆かれたのであろうと思います。

陽気づとめに掛かれば、戦いが治まるとはどういうことでしょうか。私は、天理教の「おつとめ」は、陽気ぐらしを象徴的に表現したものではないかと思っています。つまり、9つの鳴り物が奏でられますが、これは一つのオーケストラです。そしてオーケストラというのは、一つの組織です。構成する人は、すべて違う楽器を奏でます。つまり役割が違うのです。しかし、笛は拍子木より尊いとか、太鼓はスリがねより尊い、などということはないと思います。時々、そういうことを言う人がおりますが、教祖の言葉にはないと思います。皆平等です。

おぢばで勤められる「かぐらづとめ」では、音楽に合わせて10人のつとめ人衆の方が手を振られます。その手振りは、親神の自然界と人間の身体における守護を表します。音楽が人間世界の平等と完全調和を表し、それに合わせて行われる手振りが、神の守護を表している。その守護によって、人間の身体は機能しています。

また天理教のおつとめは、男性と女性が共同で為していかねばなりません。しかも、男性の役割の方が重要だという考え方はありません。全く平等であります。このように人間は役割が違うが魂は平等であり、しかも神と人がともに勇む真の平和世界、陽気ぐらしを表現したのが、「おつとめ」だと思います。この理合いを世界の人が芯から理解したなら、紛争は治まるのだと教祖はおっしゃっているのです。

人間の魂に高低はない、しかし役割の違いはあるといことを認識する。さらに個人の幸せというものが他との比較の上に成り立っているのではなく、絶対的なものと考えることが大事でしょう。申し上げたように、他と比較すると、どうしても自分は尊い、あるいは逆に自分は恵まれていない、運が悪いと天を呪ってしまうからです。そして、不足が頻繁に口から出てくるようになります。

話が変わるようですが、この1月2日から、フランスでは喫茶店やレストランでタバコを吸うことは全面禁止となりました。なぜでしょうか。それは、タバコの煙は吸っている本人だけでなく、周りにも害を与えるからです。調査によれば、むしろ周りの人の方がより重い健康への害を受けると言われます。私は、不足というものは、このタバコの煙と同じだと思います。不足も、それを言っている本人も楽しくありませんが、それを聞く周りの人間をも非常に不愉快な気分にさせるものです。だから人は徐々に彼の元に近づかなくなります。逆に、仮に喜べない状況でも、「嬉しい、楽しい」と言っている人の周りは雰囲気が良くなり、物事が活性化していきます。そして、その結果、苦しかった状況が好転するということは、実際によくあることです。

教祖の高弟の一人、深谷源治郎という人は常に「結構や、結構や」とおっしゃっていたと言います。実際には、辛い日もあったと思いますが、不足せずに日々を通られたと聞きます。この方の住んでいる町に、ある時、毎日雨が降り続きました。当時の日本は農民中心の社会ですから、あまり雨が降り続くと困ります。深谷さんは、それでも「結構や、結構や」とおっしゃっていた。知人が彼に「毎日雨が降り続いて、何が結構なんですか」と詰問しました。すると、彼は「一日に全部降ったら、洪水で大変なことになる。神さんは毎日、少しに分けて振らせてくださっているので結構や」と答えられたと言います。少し、人を食ったような答えですが、現実には、そういう肯定的な生き方をする彼の周りには、どんどん、人が集まっていったのです。その結果、その教会はどんどん発展していきました。天理教で最も発展した教会となりました。嘘でも良いから「嬉しい」「ありがたい」ということを口に出してみるということは、決して無駄なことではありません。

仮に幸せを物理的に計ることができるならば、世界中の人、個人個人の幸せの量は、あまり変わらないのではないかと思うのです。しかし、世の中には、非常に幸せに生き生きと人生を送っている人と、毎日、嘆きながら生きている人があります。それは、結局、社会的役割がすなわち尊卑の違いのように誤解し、他と比較し、自分は生来恵まれたものを持っていないなどと、不足にまみれた考え方に陥っているからではないでしょうか。

先ほど申しましたように、口からついて出る不足は、自分とともに他人をも不幸にします。そして、それは少しずつ、他に感染し、しまいには家庭の不和、社会の不和に繋がります。「楽しい」「ありがたい」「嬉しい」ということを、口に出してみることは本当に大事なことだと思います。やがて、自分の生き方が変わってくるのではないでしょうか。魂は平等、神の守護も平等なのです。

そうして、麗しい夫婦、家庭、社会を築いていく。一人一人が心がければ、それが、いずれは国家の平安につながり、ひいては人類全体の繁栄に繋がっていくと思うのです。天理教信仰者の、小さいですが、貴重な任務はここにあると思います。

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